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「日本の古層」としての祭の本棚

以下は今から100年前の1917年に柳田国男東京大学での講義で述べた内容だ。

  

近年しばしば大学は職業教育であっては困るというような批評を耳にしたようだが、日本などは古いころから、学問は一つの職業教育であった。

柳田国男『日本の祭』角川ソフィア文庫

 同じような議論は100年後の今でも続いている。

この『日本の祭』については2冊目に紹介している。

 

 年中行事の民俗学

  

 

本書は「年中行事≒祭」の民俗学の大学教科書的な位置づけの本だ。

共同執筆で全12章+特論3章から成る。

 

冒頭で紹介した民俗学者柳田国男折口信夫などから始まる研究の紹介、各地域に残る言葉や祭の特色について述べている。

 

古来の日本の祭の特色は「神と共に食事をする」ことにあった。現代で「節句」とされるものはかつては「節供」で、共同体で集まり、神に供すると同時に一緒に食べたのだった。

それは「居籠り」「御籠り」として身を清めること(=物忌み)と繋がっていたようだ。 「物忌み」は現代では「モンビ」「モノビ」として「紋付を着る日」と解釈されているという。

 

日本の祭は、古来土着のものと仏教由来のものが混ざり合っている。例えば「盆」は先祖を迎える行事で、その一環として寺で「施餓鬼(せがき)」が行われるが、仏教では輪廻転生を繰り返すのであり、先祖を迎えるという考え方は日本のものだ(しかし仏寺で違和感なく行われている)。

 

さらに政治権力も年中行事に影響を与えている。1870年(明治3年)に「日本の船が国旗を揚げるべき祝日」を定めたが、それは民間の年中行事と一致していた。

しかし旧暦から新暦に代わる際、1872年(明治4年)の12月3日が1873年(明治5年)の1月1日となった。さらに1873年(明治6年)に天皇家の行事日が祝祭日に加えられることになり、1891年(明治24年)には法律で「祝日に小学校の校長は教育勅語を読み上げること」が定められるなど、ナショナリズムと祝祭日との関係は深まっていく。

現在の「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「秋分の日」「文化の日」「勤労感謝の日」は戦前はそれぞれ別名で呼ばれた天皇家由来の祝祭日だった。

 

さらに、経済活動も年中行事に影響を与えている。

大阪の海苔業者の働きかけから始まったと思われる「巻き寿司の丸かぶり」や、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなども、もはや日本の年中行事の一環となっている。

 

柳田国男による100年前の東大白熱「祭」講義

 

 

『日本の祭』は柳田国男東京大学で行った特別講義を書籍化したものだ。

なぜ日本のエリートである東大生に向けた講義のテーマが「祭」なのかについては本書で述べられているが、簡単に紹介すれば「地元を離れて大学を出て高等な職業に就くに当たって、地元を離れたが故に触れることができなかった祭という土着文化を教養として知ること」を重視したからということになるだろうか。

 

柳田は本書で「祭」を通して、すでに述べた近代化以前、あるいは仏教伝来以前の日本の文化を読み取ろうとしている。

 

 日本の古層としての奇祭

  

 

本書は祭の解説書や研究書ではなく、旅行エッセイに近い。

しかしその文章は、まるで自分が主人公としてその場にいるかのようで、文学小説のようでもある。

 

写真家である著者の意図は、祭から「明治維新による近代化」や「仏教伝来」よりもさらに古層の「ヤマト以前」を感じ取ろうという点にある。

よって必然的に、稲作が伝わった南西側の日本よりも、東日本の祭が多く取り上げられている。

 

以上の祭について写真付きで紹介されているが、まるで自分が祭を観ているような感覚が得られる一冊だ。

 しかし残念ながら「祭に参加している感覚」は得られない。

それは本書が劣っているからではなく、著者によれば、それが得られるのは「その土地に生まれ育った当人」だけなのだ。

 

「2020年 大学入試改革」の本棚

※このブログ記事の内容は、各書籍に掲載されている(=刊行時点の)情報を元にしています。

 

大学入試が大きく変わる予定であることは、既に広く知らされている。

 

それがどのような目的と背景で行われようとしているのかを調査、海外の事例を含めて取材し紹介しているのが読売新聞教育部『大学入試改革』(中央抗論新社 2016年7月)だ。

 

P117では長期的な経緯が書かれている。

 

まず2013年10月に教育再生実行会議により2020年を目処に現行のセンター試験を以下のようなものにすることを提言した。

「1発試験のワンチャンス型」ではなく複数回の受験を可能にすること。

単純な点数の1点刻みで合否が分かれることがないようにすること。

暗記型ではなく分析・問題解決能力を測るテストにすることなどだ。

 

さらに約半年後の2014年2月に文科省原案として、以下のようなことが中教審に示された。

複数回の受験は高校3年生の12月以降に行うこと。

英語試験はTOEFLなどの外部試験利用を検討すること。

1点刻みではなく段階・グループ別の評価を用いること。

 

その約1年後の2014年12月には中教審答申が出たが、複数回実施の時期については高校や大学など関係者を含めて協議となり、高校3年生の12月以降という記述は消えている。

一方、教科については複数の教科・科目をまたいだ出題を行う提言がされた。

またCBT(Computer Based Test、パソコンなど情報端末を使って受験するテスト)の導入を検討するとされた。

 

そして、2016年3月に高大接続システム改革会議最終報告として、以下のような方針が決まった。

まず複数回実施については引き続き検討となっている。

試験は現行のセンター試験マークシート方式から、短文の記述式や英語スピーキングなどの出題を検討するとしている。

テスト結果については、合計点数だけでなく科目の各領域、問いごとの解答状況を大学に提供するとしている。

そして導入は2020年度とするものの、大きな改革は2024年度からとなった。

2018年にはプレテストを実施するという。

 

このような長い議論を経ているものの、実際に受験するのは、2020年試験は2017年度時点の高校1年生、2024年試験は小学5年生からで、教師や生徒、保護者などはすでに影響を受けることになる。

 

本書では以上のような大学入試改革の問題意識や経緯が解説されているだけではなく、全体の4章のうち2章分がアメリカ、韓国、台湾の大学入試の紹介や比較に当てられている。

それらが日本の入試改革のモデルでもあるので、実際に読んでいただきたい。

 

ところで、大学入試改革に伴って、良くも悪くも「志望大学に入る」ことを重視した高校の勉強や、そこに至るまでの小学校からの勉強も、大きく変化せざるを得なくなる。

それについての本が山内太地・本間正人『高大接続改革』(ちくま新書2016年10月)だ。

 

 

本書では2016年3月の高大接続システム改革会議最終報告を元に大学入試改革の議論や予定が詳しく解説されていると共に、影響を受ける小学校から高校までの教育についても、アクティブラーニングを軸として述べられている。

 

一方、受験生でなく教員の立場や課題について書かれた本もある。

 

 

「もし、あなたがザビエルだったとしたら、布教のために何をしますか。具体的な根拠とともに400字以内で説明しなさい」

 

これは、石川一郎『2020年からの教師問題』(ベスト新書)のオビに書かれている入試改革後に予想される例題だ。

これまでのセンター試験とどこが違うかというと、マークシート方式から記述式になっているのはもちろん、単に「ザビエルという名前を知っている」だけでは答えられない。

少なくとも、ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たことを知っていないと答えられない。

またおよその年代を知らないと「電話で勧誘する」といった答えを書いてしまうかもしれない。

この問いへの回答には、そういったこれまでのテストで必要だった「知識」を前提とし、さらに布教という「問題解決」への対応力まで問われていることになる。 

 

本書の問題提起は、現在の教師はこういった出題への回答に対するノウハウがないことだ。

つまり生徒だけでなく教師も「アクティブ・ラーナー」として学び、対応していく必要がある。

ところがこれまでのノウハウを蓄積しているベテラン教師ほど、大学入試改革による出題方式変更への対応に消極的だという。

 

新技術や流行により、既に持っている知識やノウハウが陳腐化することは多くの業界に起こっているが、教育という公的な分野にもそうした変化が及んでおり、しかも2017年時点の小学5年生や高校1年生はその変化に直面することになる。

その対応が教師や保護者に求められていることを指摘し、心構えを説いているのが本書だ。

 

また最終報告でも未定の事項は多く、今後も継続的な情報収集が必要だろう。

保護者がPTAに参加すると子供の学力が上がる? 家庭教育の本棚

「教育本ブーム」は2015年6月刊行の中室牧子『「学力」の経済学』(ディスカバートゥエンティワン)から始まり、ミューギー・キム/ミセス・パンプキン『一流の育て方』(ダイヤモンド社)など経て、2020年に予定されている大学入試改革の関連書籍へと繋がっている。

 

今回の記事では4冊の本を紹介している。

読みやすさとしては、最後に紹介する西川純『親なら知っておきたい学歴の経済学』が最も読みやすいと思うが、主に「現在の」中高生とその保護者、あるいは現役教員向けの本だ。

一般読者向けには2冊目の中室牧子『「学力」の経済学』は専門的内容ながら読みやすく工夫されベストセラーとなっており必読本といっても過言ではないだろう。ただ本記事を読んでいる方の中には既に読破した方も少なくないかもしれない。

そういった方には最初に紹介するヘックマン『幼児教育の経済学』と、3冊目の『家庭環境・心理・学力の経済分析』をオススメする。

なお、「親のPTA参加が、子どもの学力を向上させる?」という話題は3冊目に登場する。

 

また今回紹介する本は偶然にもタイトルに全て「経済学(分析)」と付くけれども、その意味はそれぞれ異なる。これについては本文中で触れていきたい。

 

【1.幼児教育の経済学】

 

 

 最初に紹介するのはジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』。ヘックマン氏はノーベル経済学賞を受賞した労働経済学者であるが、なぜ労働経済学者が教育を研究したのだろうか。

1つには教育が労働者の育成に関わっている点がある。

また例えば失業者に対しての職業訓練という再教育も公的なお金を使って行われるため、やはり教育と労働経済は深い関係があると言える。

 

そして40年に渡る追跡調査結果に基づく本書の主張は、最も効率良く公的なお金を教育に使うには「幼児」を優先的な対象とすべきであるというものだ。

その理由は、「大学教育」や「失業者への再職業教育」「貧困層への補助金」よりも、幼児教育へ「人」や「お金」を投入した実験のほうが、40年後に大きな経済効果(投資へのリターン)を発揮しただけでなく「望まない10代の妊娠」や「犯罪などの反社会的行動」「高校中退」といった出来事の発生率の低下などが起こったからである。

 

なぜこのようなことが起こるのか。これは本書では「スキルがスキルをもたらし、能力が未来の能力を育てる(P34)」と表現されている。このように「加速度的」に能力を身に付けていくとすれば、初期の小さな差が、後には大きな差を生んでしまうことになる。

 

また次に紹介する本、『「学力」の経済学』においては「九九ができないと因数分解ができず、因数分解ができないと微分積分もできません」と表現されている(『「学力」の経済学』P78)。微分積分を学ぶ段階になってから九九を教えるために公的なお金を投入するよりは、九九の段階で公的な介入をして教えておいたほうが苦労(コスト・費用)が小さいというのはイメージしやすいのではないだろうか。

 

幼児の環境は、本人に責任のない家庭状況に大きく左右される。ならば全ての幼児に公的な「人」「お金」を投入すれば、最も公平かつ経済効率的ではないか、というのが本書の立場だ。

そのための財源は税金として、富裕層から多く、貧困層からは少なく徴収すれば良いことになる(P38参照)。

こうした主張は説得力があるためか、僕の住んでいる市も2020年に4歳・5歳の教育無償化が目指されている。

 

これは貧困層への補助といった「格差が生じてからの再分配」ではなく、本人に責任のない格差発生を未然に防ぐための「事前分配(P39)」という点で大きな意味を持つという。

 

ただし、この研究が明らかにしたのは以上のような話だけではない。

実はIQについては「実験対象」と「対象外」との差は、介入の4年後に消失したことも紹介されている。ただしIQに差はなくなっても、実験対象の子どものほうが継続して学校へ行き、より多くを学ぶことで成績が優秀であったこと、40歳時点で収入が多く、持ち家率が高く、生活保護率や逮捕者率が低かったことが記述されている。

これが、幼児に投資すると、税収が上がり、社会保障費が下がり治安も良くなるといった投資以上のリターンが見込める根拠だ。

 

これは裏を返すと、教育の成果やその後の社会行動には、IQ以外の部分に重要な要素があるということだ。本書ではそれを「非認知能力」として紹介している。この「非認知能力」は2冊目で紹介する『「学力」の経済学』、3冊目で紹介する『学力・心理・家庭環境の経済分析』でも重要な概念として取り扱われている。「非認知能力」は「認知力テストでは測定できないもの」、本書では「意欲」「長期的計画をして実行する力」「他人との協働」「社会的・感情的制御」などが挙げられている。

  

なお本書は、まず著者の主張が記述され、次に各分野の専門家が反論・疑問を呈し、それに著者が再反論する、という少し変わった構成になっている。

反論側の立場は「幼児期だけではなく他にも支援すべきものある」といったものが多く「幼児期の子どもへの公的な支援の有効性」については概ね了解がとれているように思えるが、実験内容や結果そのものに対して懐疑的な立場もある。

例えばチャールズ・マレー「幼少期の介入に否定的な報告もある」、ニール・マクラスキー「ペリー就学前プロジェクトの成果は比較的小さい」などだ。そのような反論・疑問についても耳を傾ける必要があるだろうし、これらに対する著者の再反論に十分な説得力があるかどうかも本書の読みどころだろう。

 

【2.『「学力」の経済学』】

 次に紹介するのは、教育本ブームの火付け役となった中室牧子『「学力」の経済学』だ。

 

 

本書はベストセラーといえるほどの売れ行きを見せ、2016年ビジネス書大賞で2位に選ばれた。書評なども既に多く存在しているので、内容紹介は省略し、ここでは書評等とは違った視点から記述したい。

 

まず著者は教育経済学者で、本書によれば「教育と経済行動」に関わる領域を専門としている。ヘックマン氏の労働経済学のように経済政策への提案などへ直接つながる「マクロな経済学」というよりは「ミクロな経済学」による視点の本である。

「ミクロな視点」であるがゆえに「褒めて育てるのは正しいのか」「勉強をご褒美で釣ってはいけないのか」「ゲームは子どもに悪影響があるのか」といった親が持つ身近な疑問が主テーマとなっており、それが読みやすさにつながっている。

 

一方で、本書ではその内容が「単なる経験則による主張」ではなく「データ等で学術的に立証されたものであること」を伝えようと努力していることが伺える。例えば本文では読みやすさを重視して図解を用いて専門的な用語は避けつつも、欄外や巻末に専門的な解説を付けるなどの工夫がされている。

また本書は既に紹介した『幼児教育の経済学』のヘックマン氏や、有名な「マシュマロ・テスト」をはじめ、多くの研究実績を分かりやすく紹介している。

  

それでも、本書は含んでいるコンテンツのボリュームが多いこともあり説明が不十分と思われる部分がある。そこで、以下では筆者が気付いた部分を2点補いたい。

 

1つめは「統計的に有意な差が見られた」といった表現だ。「統計学ブーム」もあったのでご存じの方も多いかもしれないけれど「統計的に有意」とは、単にそれだけでは「無関係とは言えない」といった意味でしかない。統計学の用語では「無帰仮説が棄却された」と言う(詳しくは統計学についての入門書を読んでいただければ良いと思う)。

例えば「××をすると学力が伸びることが統計で分かった」としても「自分の子どもが××をしても学力が伸びない可能性」はある。

統計は、個人・個別の事柄についてまで答えはもらえない分野だという点に注意が必要だ。とはいえ統計は多数の対象を調査した結果なので、「私の経験では…」といった「意見」や「経験則」に比べれば信頼性は高いと言える。

 

2つめは、本書のP155から登場するアメリカの教育NPO「Teach For America(ティーチ・フォー・アメリカ、以下TFA)」についてだ。

本書では教員免許を持たないTFAスタッフのほうが、免許を持った教員より子どもの学力向上に貢献したことが述べられ、教員免許制度に疑問を呈している。しかしTFAそのものについてはあまり詳しく説明されていない。

TFAは教育問題の解決に取り組むNPOで、2013年に米フォーチューン誌で「One of the best companies to work for(筆者訳:ベストな就職先の1つ)」に選ばれた団体である。特に米国の文系学生から人気で、2014年ではFBIやAppleを抑えて就職希望5位にランクインしている(参照:「TOP10にTeach For America、Teach Firstが定着。アメリカ・イギリス2014年文系大学生就職ランキング」http://drive.media/posts/4087)。

 

このような団体のスタッフは、教員免許より圧倒的に高いハードルを乗り越えた人なので、当然ながら優秀だ。そのTFAのスタッフが免許を持つ平凡な教員よりも生徒の学力向上に貢献できることは、特に驚くことではない。

例えば、東大卒の会社員が、一般的な大学で教員免許を取得した教員よりも、生徒のテストの点数を向上させたからといって、教員免許に意味がないとは言えない。

本書の「教員免許という参入障壁に対する経済学的視点からの疑問」には同意するものの、TFAのスタッフという極端な事例だけではそれを主張するには不十分だと感じた。

 

なお、本書は親が持つ疑問などをデータに基づいて過去の研究を紹介しながら経済学的な観点から解説した本だが、そのデータはほとんどがアメリカのものだ。日本とアメリカでは、家庭状況や教育政策や文化など含め、大きく異なることは明らかである。

では、なぜ日本のデータを元に書かれていないかというと、分析するための十分なデータが存在しないからだと指摘している。実は本書は、日本でも積極的に教育に関するデータを利用、分析できるようにすべきという問題提起を行っている本でもある。

 

そして次に紹介する本が、それから約1年後に刊行された日本のデータを元に書かれた本だ。

  

【3.学力・心理・家庭環境の経済分析】

 

 

 本書は、慶応義塾大学パネルデータ設計・解析センターによる日本の家庭への調査を解析した学術専門書だ。ここでの「経済分析」とは「経済統計学の手法を用いた分析」といった意味と捉えたほうが良い。

 

本書は全9章、231ページのうち、「なぜ調査を行ったのか」「どのような方法で行ったのか」の説明だけで1章と2章、58ページを費やしている。続く第3~9章では各テーマの分析結果が記述されているが、ここでも各分析の目的、方法等が細かく書かれている。そのため決して読みやすい本とは言えない。

 

少し引用すると、例えば第3章「親の経済力と子どもの学力」では以下のような文章がある。

 

固定効果モデルにおいて、世帯所得が学力に与える影響が統計的優位性を失うことは、一般的な所得の増減が、直接学力に与える因果的影響は大きくないことを示しており、米国での先行研究(とくにBlau 1999)とも矛盾しない。しかしながら、これだけをもって「所得が学力に与える影響は無視できる」とまで結論づけるのは早計である。第1に、パネルが2時点分しかないため、標準誤差が非常に大きい。また、所得の測定誤差は固定効果モデルにおいては相対的に大きくなるため、測定誤差の存在は、OLSよりも固定効果モデルにおいて、推計値の絶対値をより小さくする方向にバイアスを与える(Dahl and Lochner 2012)。しかしながら、固定効果モデルの係数の大きさはOLSによる推定の係数のおよそ100分の1になっているため、所得の想定誤差による影響だけでは説明できない。(P78~79)

 

これだけで、「研究者が分析する」というのはこのような丁寧な作業の積み重ねであること、テレビなどのコメンテーターの意見とは別次元であることが分かるだろう。

思わずそっとページを閉じてしまいそうだけれど、このような内容を一般読者(筆者を含む)が完全に理解する必要はないと思っている。

 

各章の「おわりに」で結論がまとめられているので、そこだけでもきちんと読めば本書の代金の元は十分にとれるだろう。また本書を読むうえでは、最後の「補論」から読んでおくと良いかもしれない。調査の分析手法である「パネルデータ分析」と「クロスセクション分析」について解説されているからだ。

ただ、ここでも全てを理解する必要はなく「クロスセクション分析では時系列の比較ができないがパネルデータ分析ではできる」程度のイメージを掴めれば良いのではないかと思う。

 

なお本書では「学力」は「国語」と「算数・数学」で評価されている。

一方、既に紹介した『幼児教育の経済学』や『「学力」の経済学』でも重視されている「非認知能力」は「社会性」と「QOL(Quality of Life)」として、調査・分析されている。

 

 

ここでは筆者が特に関心を持った第7~9章を少し紹介したい。

 

まず第7章「子どもの発達と出生時の健康」では、「低体重=出生時体重が2500mg未満」と「その他=2500mg以上」の場合で学力などの「認知能力」と「非認知能力」に関連があるのかを分析している。結論から言えば関連は見られていない(統計的に有意な差は見られない)。むしろ学力については、低体重の子どものほうが、そうでない場合よりも高い傾向が見られている(しかし統計的に有意な差は見られない)。ただし「教育支出」については低体重の場合の方が多いことも同時に示されている。

これについて本書では、低体重で生まれた親は、子どもへの教育支出をより行うため、結果的に学力が高くなるのではないか、と推測している。

 

第8章「教育投資と経済格差」は社会問題ともなっている「子どもの貧困」とも関わる内容だ。

教育支出は世帯所得1%の増加に対し0.34%増加している(逆に言うと、世帯所得が1%減少しても教育支出は0・34%しか減らせないことになる)。

ただし、そのうち学費は0.17%しか増加しないのに対し、課外活動は0.41%増加している。

この課外活動は、低学年時は「習い事」に支出されるが、学年が上がると「塾・家庭教師」に変更される。途中の議論は省略するが、本章では両親の学歴によって「中学受験」を意識するかに差が生じており、さらに世帯所得の差によって「塾・家庭教師」への教育投資に比較的大きな差が生まれている可能性があることを指摘している。

 

第9章「親の学校参加と子どもの学力」は、親のPTA参加と学力に注目している。

一見、奇妙な分析に思えるが、実は親のPTAへの参加が、教員や他の保護者との繋がりを生み子どもにプラスの影響を与えること、また親がPTAの会議やボランティア活動などに参加することが子どもの「認知能力」「非認知能力」を向上させることが確認されている。

これは日本だけでなく、国際的に認められている現象らしい。

 

『「学力」の経済学』を既に読んだ方は挑戦してみてはいかがだろうか。

 

【4.『親なら知っておきたい学歴の経済学』】

 

 

最後に紹介する本は、刊行時点(2016年)で中高生の方、およびその保護者を読者に想定した本である。また、生徒の進路に関わる教員にもオススメだ。

 

本書は「中卒より高卒、高卒より大卒、大卒ならば偏差値が高い大学が良い」といった古い価値観は、「江戸時代の士農工商身分制度明治維新で崩壊した」ように今後は通用しないことを主張すると共に、将来を見据えた進路選びのアドバイスをしている。

例えば本書を1枚めくれば「偏差値60の大学より実業高校のほうが就職先が良い場合も多いのです」というエキセントリックと思われる記述がされている。

「多い」とは思わないが、大卒での就職が、実業高校や専門学校卒の就職より「必ず良いとは限らない」ということには同意する。例えば筆者の知人でも、工業高校から就職した後、企業が費用を負担して国立大学の専門課程を2年間、給与をもらいながら通学した人がいる。その人は学歴こそ大卒とは名乗れないが、受験勉強することなく国立大学に入学し、実務と関わる理論を学んだことになる(もちろんこれは極めてレアなケースだ)。

 

本書の著者は教育大学の大学院教授で、教員を養成する立場の方である。そのため本のタイトルに「経済学」とあっても経済学の専門的なテーマではなく「大学進学の費用は割に合うのか?」という家計レベルの話題が主になっている。

とはいえ、奨学金の返済の遅延が3か月続くとブラックリストに掲載され、本人がクレジットカード作成ができなかったりローンが組めなくなる可能性があることなど「お金」に関する重要な情報も含まれている。

 

その他、2020年の大学入試改革と、それよりも前倒しで既に起こっている大学入試の変化、そして情報技術のさらなる発展を見据え、それに対応した進路選びについてのアドバイスがされている。

 

ただし本書の内容には、筆者が同意できる部分とそうでない部分がある。

同意できる部分は、進路指導や進学についての話題と、大学についての話題だ。また省庁の統計など客観的なデータも多く掲載されている。

 

一方、同意できない部分は「企業が求める人材」といった企業社会についての話題だ。

例えば本書では「企業は即戦力を求めているので教養系の学部よりも実務に直結した学部や実業高校のほうが良い」や「面接で大学の勉強について質問されるので、志望する企業や業界を決めておき、それにあった講義を履修すべき」といった主張がされている。

しかし筆者の知る範囲では、理系の大学院を出ても企業では「即戦力」とはみなされないし、医学部など一部を除けば「卒業学部だけ」による明らかな有利不利はないと認識している。

そのため志望する企業・業界に合わせて「履修する講義を選ぶ」といった必要があるとは思っていない(ただし就職活動で成績票の提出を求められたり大学での勉強について質問されるようになってきているのは事実で、なぜその科目を履修しようと思ったのか、程度は答えられる必要はある)。

 

このような著者と筆者の意見の相違を差し置いても、本書は2020年の大学入試改革と情報技術発展を見据えた「進路選びの参考書」としては得られるものが多い1冊に思える。

ドイツと日本 ー労働・戦後処理・現在ー

 

日本とドイツは共に第二次世界大戦に敗れ、連合国の占領下にあった歴史を持つ。

また超少子化国であり、工業製品の輸出国である点も共通している。

 

一方、日本で「働き方改革」の議論が行われているが、先進国で、統計データ上で特に労働状況や労働生産性が優秀に見え、労働時間が短い国がドイツである。

 

 

 

『ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか』(青春新書)では、ドイツ在住のジャーナリストである熊谷徹氏が、日本とドイツの働き方の違いを分析している。

 

本書によれば、ドイツでは有給休暇が年間30日で取得率は100%が当たり前で、残業については年10日まで追加で振替休日として取得することができ、実質年間150日の休日があるそうだ。さらに病気による欠勤はこれには含まれず、別途、給与保障がつくそうである。

 

「そんなに休んで仕事がまわるのか?」と思うが、「他の同僚にも自分の仕事が分かるよう常に整理整頓しておく」という「チームで仕事を片付ける」という就労文化によるところが大きいようだ(そのため休日が多いのは被雇用者で、経営層は上記のように休暇がとれるわけではない)。

 

一方、日本では「本日は担当者が不在です」といった対応が多く、「仕事が人に紐づいて」いる。担当者でないと仕事が分からない状況だと、休むと仕事がまわらなくなったり長時間労働の原因になってしまう。

 

本書は他にも統計データと、著者が在留中に得た情報により、ドイツの労働・社会政策(特にメルケル首相の前任者のシュレーダーによる改革)、インダストリー4.0などの産業政策など、ドイツ流の優れた面を紹介しつつ、その「良いとこ取り」を薦めている。

 

また、熊谷氏はドイツの戦後処理についての著書もある。

 

 

日本もドイツも、共に第二次世界大戦敗戦国だ。

しかし、日本が中国・韓国等の周辺国と歴史認識で問題を抱えている一方で、現在のドイツはEUの主導国として周辺国からの一定の支持を得ている。もしドイツが日本と同様に、周辺国との問題を抱えたままだったならば、今の地位は築けなかっただろう。

 

なぜ、このような違いが生じたのか。

 

結論から言えば、その大きな要因は、陸続きであったドイツと、島国である日本の違いにあると言えそうだ。

ドイツは世界大戦以前からヒト・モノ・カネ等の交流が盛んだった。「そうした交流抜きでは国として成り立たない」と認識していたドイツは、ナチス政権を自ら徹底的に否定し、賠償金を含めた謝罪をすることによって、「戦中」と「戦後」のドイツを「政治的に連続性のないもの」と周辺国に認識してもらうことに成功したという。

 

例えばドイツは、ナチスによるユダヤ人殺害について600万人という数字を周辺国と共有している。これについて、例えば「実は300万人なのではないか」といった議論をすることも可能だったかもしれないけれど、それよりも周辺国との友好関係構築を優先し、今もなおナチス戦犯の捜査・逮捕を続けている。

 

それに対して、日本は戦前・戦中・戦後について一定の連続性を抱えている。その良し悪しは別として、もし日本が島国でなければ、韓国や中国との問題を差し置いたままにしておくことは難しかっただろう。「ヒト・モノ・カネの中継地点」ではなかったことにより、そういった問題が未解決のまま年月が経ってしまった。

そのため、現在もなかなか周辺国との折り合いがつかず、日本国内でも戦時中についての評価が一致していない。

 

上記2冊はいずれもドイツをある観点からよく理解できる書籍だが、著者の熊谷氏はドイツびいきな面があり、負の側面についてはあまり触れられていないように思える。

そこで次は、ドイツを逆に批判するエマニュエル・トッド氏の著書を紹介したい。

 

 

 「ソ連崩壊」「金融危機」「アラブの春」を、著書の中で次々と予言し的中させてきたとされるのが、フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッド氏だ。2015年5月に翻訳・出版した本書でも、刊行後に行われたイギリスEU離脱の投票結果まで予想し的中させている。

 

本書はフランスでのインタビュー記事をまとめたもので、総論としては「ドイツ」と「ロシア」の関係に注目しつつ、実質的にドイツ主導であるEUを批判した内容だ。

タイトルにある「世界を破滅させる」は言い過ぎな感があるが、本書では「国としてのドイツ」だけでなく「周辺国を含めたドイツ圏」を見ることで、その評価が変わる可能性を示唆している。

 

「周辺国を含めたドイツ圏」とはハンガリーポーランドなどであり、もっと言えばEU全体になる。ドイツは周辺国の安価な労働力や格差を利用して、その高い生産性や経済力を生み出しているというのがトッド氏の指摘だ。

実際、ハンガリーポーランドなどはドイツより長時間労働である一方、その所得は低い。この意見に従えば、ドイツは「お手本の国」から一転して「周辺国との格差を利用して裕福になった国家」という評価になる。

 

もっとも、フランスはプロイセンとの戦争(普仏戦争)まで含めると3度もドイツとの戦争に敗れた歴史がある。

トッド氏はフランス人として、ドイツに追従するしかないフランスの現状に対する不満を隠していない。

 

よって、熊谷氏の意見を鵜呑みにできないのと同様、トッド氏の意見だけを持ってドイツが周辺国との間に問題を与えている国であると決めつけるのも早計に思える。

 

(ドイツの歴史)

いつからがドイツ、どこからがドイツなのか、というのは難しい。しかも、2つ以上の国として併存していた時期も少なくない。

以下は『ドイツを知るための50章』(明石書店)を元に作った年表だ。

 

 

 

「僕の名は?」の本棚

新開誠監督の映画および同氏の小説『君の名は。』が大ヒットし、ブルーレイ・DVDも発売された。

 

筆者は小さい子供がいて、ここ3年ほど映画館へ行くことができていない。

仕方がないので「君」ではなく「僕」に焦点を当て、「不明瞭な主人公の物語」を3作紹介する。

 

【1】東のエデン

 

 

 

 

 

羽海野チカ キャラクター原案によるアニメ『東のエデン』の小説版である。

ヒロイン森美咲(もりみ さき)の前に突然、全裸で現れる主人公。両手にはなぜか拳銃と携帯電話。主人公にはそれ以前の記憶がない。

彼は自宅と思われるアパートで見つけた複数の偽造パスポートの中から、滝沢朗(たきざわ あきら)という名前を選び、咲と共に日本へ行くことになる。

 

東のエデン』は2009年4月にテレビで放送開始された。当時はリーマンショックとそれに伴う就職難や内定取消問題などがあり、当時の時代背景を色濃く反映しているように思える。

 

また作品中の重要アイテムとなる携帯電話「ノブレス携帯」におけるオペレーター「ジュイス」は、iPhoneに搭載されているSiriを想起させるが、SiriのiPhone初搭載は放送2年後の2011年、日本語対応は翌年2012年のことだ。

他にも物語中で登場するアプリケーション「東のエデン」や、未来予測システム「世間コンピュータ」など、今から思えば本作品がスマートフォンが広まる以前から集合知ビッグデータ、ARなどの流行を先取りしていることに驚かされる。

 

なお小説版はアニメ版で1冊、劇場版1・2で1冊として、脚本・監督の神山健治氏により小説化されたもの。この「映画脚本家が自ら小説化する」という形は、後の『おおかみ子どもの雨と雪』の細田守氏や、『秒速5センチメートル』『君の名は。』等の新海誠氏にも引き継がれている。

 

【2】スカイ・クロラ シリーズ。

 

 

 

 押井守監督により制作されたアニメ映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008年公開)は、ヴェネチア国際映画祭で上映されデジタル部門賞を受賞した。

原作である森博嗣スカイ・クロラ』は、この1作品だけを読む場合と、シリーズ作品である『ナ・バ・テア(None But Air)』、『ダウン・ツ・ヘヴン(Down to Heaven)』、『フラッタ・リンツ・ライフ(Flutter into Life)』、『クレイドゥ・ザ・スカイ(Cradle The Sky)』を通して読むのとは、全く印象が異なる物語となっている。そもそも森氏によれば『スカイ・クロラ』は、このシリーズの最終巻に当たるとされている。

 

よって時系列としては第2作『ナ・バ・テア』から始まる本シリーズだが、物語が進むにつれ、だんだん主人公である「僕」の存在が不明瞭になっていく。

それは『クレイドゥ・ザ・スカイ』において特に際立ち、主人公「僕」が誰なのかすら明らかにされていない異色作品となっている。またスピンオフ的な作品『スカイ・イクリプス(Sky Eclipse)』はシリーズの補完的な役割を果たしていると捉えることもでき、シリーズ全体がひとつのミステリ作品になっているとも言えるだろう。

  

 

【3】ハサミ男

  

 

殊能将之ハサミ男』は、その手口から通称「ハサミ男」と呼ばれることになる連続殺人犯と、それを追う刑事役との視点が交互に描かれるミステリ作品だ。

ハサミ男」は自らの手口を真似た模倣犯の出現により、それを独自に追うが、その視点では「私」とだけ記述され「ハサミ男」が誰なのかは物語終盤まで明らかにされない。

 

つまり本作品は「模倣犯は誰か?」と「主人公=ハサミ男=私は誰か?」の2つの謎を抱えた物語となっている。

この謎が明らかになったとき、私たちがいかに「思い込み」に捕らわれているかを思い知らされることになるだろう。なお本作は映画化(出演:豊川悦司麻生久美子 他)もされており、原作とは異なった工夫により作品の魅力を引き出している。

 

 

 

保育問題の本棚

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※以下の文章は投稿時の情報・筆者の認識に基づくものです。「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」等は2018年度より改定・実施が予定されています。

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2016年は保育問題、とりわけ待機児童問題が大きく取り上げられた。

ただ筆者としては、まるで「保育所に入れた者勝ち」のような空気には、やや違和感を覚えている(もちろん、やむを得ず保育所に子どもを預ける必要がある場合は、そのための場所は必要だ)。

以降(あるいはそれ以前から)、待機児童については対策が取られている一方、その対策が保育の質的悪化を招いている場合もあるようだ。

 

そもそも保育所とはどういう場所なのか。

それを知るのに最適なのが近藤幹生『保育とは何か』(岩波新書)だろう。

 

 

本書によれば、保育施設(施設型保育給付)は大きく3種類ある。

 

1つは「保育所」で、厚生労働省が所管し児童福祉法を根拠とする『保育所保育指針』に基づき運営される。ちなみに全ての保育所で0歳の乳児が預けられるようになったのは1998年のことで、それほど昔の話ではないそうだ。

 

2つめは「幼稚園」で、文部科学省が所管し学校教育法を根拠とする『幼稚園教育要領』に基づき運営され、4月1日時点で3歳(または4歳)の幼児から就園できる。保育所の待機児童問題が起こっている一方で幼稚園は定員割れが問題となっており、統廃合などにより施設数は減少している。

実際、筆者が住んでいる市も2020年を目指し4歳、5歳の教育無償化が掲げられており、その財源は定員割れをしている公立幼稚園の統廃合により賄う施策が予定されている。

 

3つめに、上記2つのタイプの保育が一体的に運営されることが期待されている「認定こども園」だ。

 

保育問題というと保育所をはじめとする「施設型給付」だけに焦点が当てられがちだが「地域給付型」と呼ばれる保育サービスや、育児サークルの存在もある。

例えば育児経験者・シルバー人材による低価格のベビーシッターサービス、市町村から助成を受けている育児サークル、保護者が同伴し無料で利用できる子育て支援センターなどだ。

 

筆者の妻は最後に紹介した子育て支援センターを毎日のように利用していた。

保護者が同伴していれば、家のリビングより広く、たくさんのオモチャが無料で利用でき、読み聞かせなどのイベントもある。また保育士が常駐しており育児相談も気軽にできる他、保護者も同じ空間にいるため、同じ年齢の子ども、または同じ年齢層の親同士が知り合う場にもなる(保育所で親同士が仲良くなる機会はあまりないのではないか)。

さらに0歳から5歳までの子どもが同じ空間で遊ぶことで、例えば筆者の子ども(執筆時2歳半)は2歳くらいの年上のお兄さんとの関わり方などを自然と身に付けているようだ。

 

ところで、現状の保育所は制度的には「保育に欠ける子ども」のための施設と位置付けられている。この表現についても様々な意見があるようだけれども「保育に欠ける」とは、どのような状態だろうか。

本書で挙げられている例を紹介すると、母親は朝5時に起きてゴルフ場で2時間働いてから帰宅して朝食を作り、その後すぐにスーパーで働いている。父親は自動車修理工場で働いているものの収入が少なく、退勤後は夜10時頃までコンビニで働いて、なんとか生活が成り立っている。

このような状態では、当然、育児をする時間はない。

少なくとも現時点では、保育所は「両親が働かなければ生活できないなどの事情がある家庭の子ども」のための福祉施設であり、「子どもがいることで働けない親」のための施設ではない。

 

一方で、幼稚園の教育と保育所の託児の機能が統合されている「認定こども園」では「保育に欠ける」ではなく「保育が必要な」子どもを受け入れる施設とされており、必ずしも親が働いている必要はない。

 

 

 

ただし、認定こども園にも問題があるようだ。

それは<制度>は「保育所」「幼稚園」という枠組みから変化できても、そこで働いている保育教諭や保護者の<認識>は簡単には変化できないことから生じているように思える。

例えば、幼稚園ではPTAが存在するなど保護者の役割が一定存在し、行事への参加なども多くある。一方、保育所に子どもを預けている保護者は働いていて保育所での行事に参加することは困難だ。

認定こども園では保護者参加型が目指されているそうだが、全ての保護者が運営に参加可能なわけではない。また幼保連携により、園内の子どもをとりまく家庭事情等は多様化せざるをえない。

そういったギャップは、保護者同士はもちろん、保育所経験者の保育士と幼稚園経験者の幼稚園教諭の間でも大きいようだ。

 

以上のような多様な保育サービスがある一方で、利用希望が集中しているのが保育所である。

しかし、待機児童を解消するための無理な施策が、逆に子どもが受ける保育や保育士の労働環境を悪化させている面もあるようだ。

2014年7月に刊行された猪熊弘子『「子育て」という政治』(角川新書)はそれをいち早く指摘していた。

  

 

 分かりやすい例として挙げているのが横浜市が2013年に行った「待機児童ゼロ」発表だ。しかし「待機児童」の定義は自治体により様々で、実は希望通りの保育所に入所できていない子どもは1746人いることも合わせて公表されていた。

しかし横浜市はこれを「保留児童」と定義することで「待機児童ゼロ」と発表したという。

 

著者は横浜市の保育政策を一方的に非難しているわけではない。2010年に3万8331人だった入所児童数を2013年に4万7072人にまで増やしたことなど待機児童解消のための施策について一定の評価はしている。

その一方で、0歳児1人あたり面積を2.475平方メートルにまで自治体判断で緩和(国の最低基準が3.3平方メートル、多くの認可保育所が5~5.5平方メートル)したり、高架下や道路沿い(過去に2度自動車が追突した建物の跡地)に保育所を作ったりなど、無理な施策については批判している。

 

 さて、そのような無理な施策により、保育の現場が崩壊していると指摘するのが『ルポ 保育崩壊』(岩波新書)だ。

 

 

 

とりわけ本書で指摘されているのが私立、つまり民間企業による保育所運営問題である。保育に株式会社など民間組織が参入すること自体は問題とは限らないものの、以下のような事例が記述されている。

認可保育所の収入は定員による上限がある一方、運営コストの7~8割を人件費が占めることから給与がコスト削減の対象となりやすく、職員平均年収が200万円程度など、通常の企業に比べ待遇が低くなっているという。

さらに、勤務する保育士に弁当持参を許可せず子どもと同じ給食を食べることを強制させ、その給食をグループ会社が作り収益源としている保育所があるとしている。また同グループに保育士派遣会社も保有しており、保育士の給与からピンハネする構造となっているそうだ。

 そういった待遇により、ベテラン保育士は退職し、新卒の離職率も極めて高い状況にあるようだ。1年ですべての保育士が退職した保育所も紹介されていいる。さらに非正規職員の比率が増加しており、本書では正規職員がゼロの保育所についても書かれている。

 

また先に紹介した本『保育とは何か』の著者であり大学教員でもある近藤幹夫氏は、知人が「新卒の保育士50人を集めてもらえば1人の基本給を5万円上乗せする」といった交渉を持ちかけられたことを明かしている。保育所の増加に対して、保育士は次々と離職するため、新卒の大量採用によって補っている構造と思われる。

こうした状況により保育経験豊富な保育士が圧倒的に不足しており、子どもが受ける保育の質を悪化させているようだ。

 

本書ではどの保育所か明らかにされいないが、以下のような事例も紹介されている。うち多くが株式会社をはじめとする民間運営の保育所のようだ。

・認可に必要な部屋面積を確保しつつも、管理を楽にするために柵を使って部屋の2分の1や3分の1といった範囲に子どもを押し込めている保育所

・施設内に園庭がない場合は近隣の公園を園庭として用いることになっていながら、半年間働いた間に1度も公園へ散歩に行かなかったという保育士の証言。

・新設開園2日前に内装工事をしておりクラス担任も決まっていない保育所

・スケジュールに追われ、子ども押さえつけ無理やりごはんを掻き込む保育士。

・コスト削減のために食器などを家庭から持参させる保育所

・障がい児など「要支援児」には別途補助金が与えられるが、実際にはその補助金に当たる保育士を配置していない保育所

 

このような問題は、時間の経過と共に解消されていく可能性は高いものの、少なくとも現時点では(少なくとも私立の)保育所は「入れたもの勝ち」と安易に言える状況ではないのではないか、という気がする。

ウェブ残念化論(あるいはウェブ▲2.0)の本棚

梅田望夫ウェブ進化論』が刊行されて10年が経った。

実のところ僕は未読なのだけれど、あまりに多くの本で紹介されすぎて、読んだ気分になってしまうほど有名な本だ。

 

 

ウェブ進化論』の紹介で必ず触れられるのが「ウェブ2.0」という概念で、これは今では当たり前になった「ネットの双方向性」により、社会がそれ以前から変化していくことを指す。

平成生まれの方などは「双方向でないインターネット」のほうが想像しにくいかもしれないが、例えば企業ホームページなどは一方通行の情報発信の性質がいまだに根強い。

双方向が「今では当たり前になってしまった」ということは、この本で紹介されていたことが現実になったと言えるだろう。

 

ところが、多くの場合『ウェブ進化論』はネガティブな意味で紹介される。その理由としては、あまりにもウェブに期待しすぎた、あるいは期待を持たせすぎた点にあるだろう。

ただし、その「前向きな期待」が全面的に間違っていたわけではない。この「前向きな期待」に沿った本には、例えば以下のようなものがある。

※『一般意志2.0』の単行本は2011年11月刊であり、以下の3冊は概ね『ウェブ進化論』から2~3年間隔で刊行された時系列順だ。

  

 

 

 

 ところで、2016年4月9日にアップした記事で中心的に紹介した本、堀内進之介『感情で釣られる人々』では、「感情の動員」という言葉が多用されている。これは参考文献として記載はされていないが、津田大介氏の著書『動員の革命』のタイトルを意識したフレーズではないか?というのが僕の推測だ。

 

 

しかし、 双方向性を持ったウェブ、とりわけSNSソーシャルメディア)を伴った社会は、既にその「残念さ」も露わになってきた。

もちろんソーシャルメディア以前にその「残念さ」が存在しなかったわけではない。例えば内田樹『街場のメディア論』ではネットではなく既存のマスメディアについて「残念さ」に通じる内容が書かれている。

 

 

ここでいうウェブ情報、主にネット記事の「残念さ」とは例えば以下のようなものだ。2016年には「WELQ問題」や「フェイクニュース」などが大きなトピックになった。そしてネットで盛り上がるのはテレビのワイドショーと同じような芸能人の不倫だったりする。また現在では「インターネットによる双方向性」を大いに活用した「メルカリ」などのフリマアプリの問題が指摘されている(なお、僕はアプリ運営側よりも、利用者側の問題が大きいという立場だ)。

東日本大震災での「デマ」が非常時における問題だったのに対し、2016年以降に指摘されているのは平常時にそれとなく身の回りにある問題であることに注意が必要だろう。

 

 さて、前置きが長くなったけれど、「ウェブの残念さ」について書かれた本としてここで紹介するは中川淳一郎ウェブはバカと暇人のもの』だ。ページの最初をめくるとなかなか衝撃的な構成になっているが、いたって真面目な本である。

2009年4月刊行にも関わらず、冒頭から「Web 2.0ってどうなった?」と疑問を呈する。以降も、まるで未来を見てきたかのように現在に至るまでのネットの「残念さ」について記述されている。

目次小見出しを一部を紹介すると

「さんまやSMAPは、たぶんブログをやらない」

「ネットの声に頼るとロクなことにならない」

「これからも人々は大河ドラマ紅白歌合戦を見続け、「のど自慢」に出演する」

「ブログに書く理由は「タダ」だから」

といった具合だ。

 

 

 この同年に、既に紹介した津田大介Twitter社会論』で「140字のつぶやきが世界を変える」と論じられ(そして一部は確かに実現し)「前向き」に信じられてきたのだった。

しかし現在・現実は中川淳一郎氏の指摘に近いのではないか。

とりわけ、インターネットの世界で育ち、それを前向きに作り上げてきた家入一真氏(読書に関するサービス「ブクログ」の開発者でもある)が『さよならインターネット』という本を刊行するに至ったことは興味深い。

 

  

本書にあるように家入氏がインターネットにおいて「自由と可能性に満ちた世界は閉ざされつつある」「やさしかった世界は消失した」と感じるのは「ウェブ2.0以前の世界」を知っているからだろう。この本では、引きこもりだった中学生時の1992年に電話回線でパソコン通信をしていたころからのネット社会の変化が書かれている。ただし家入氏は完全にインターネットに別れを告げようというわけではない。

 ちなみに家入氏を含む1976年前後に生まれIT業界で活躍する人々は「ナナロク世代」と呼ばれる。mixiモンスターストライク運営)も、2ちゃんねるも、グリーも、DeNA(モバゲー運営)も、はてなも、この世代によるものだ。

d.hatena.ne.jp

 

なお『さよならインターネット』では、その一人である家入氏が衝撃を受けた新入社員の言葉として

「インターネットが好きというのがよくわからない。ハサミを好きって言っているみたいで」

というものが紹介されている。

 「ウェブはバカと暇人のもの」かもしれないが、「バカとハサミは使いよう」でもある。

僕もバカの一人として、ハサミをよりうまく使っていきたいものだ。